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ジョン・アーリ『社会を越える社会学
 ―移動・環境・シチズンシップ』(共訳)

『社会を越える社会学』表紙

2006年5月刊、2011年新装版刊。法政大学出版局。監訳・吉原直樹。モノ、コト、ヒト、イメージが「社会を越える」ことによって社会学はいかなる方向に向かうのか─。市民社会論と時間・空間論を両輪に、従来の社会学においてブラックボックスとなっていた「移動」概念に焦点を当て、レジャーや仕事のための旅行から、情報や廃棄物の移動、都市テロや伝染病まで、21世紀の身体上、想像上、バーチャル上の移動と越境を論じ、ポスト国民国家における脱中心的な市民社会を予見する。

書評一覧

欧文雑誌のものはBlackwell Synergy上のものです(要、アクセス権限)。

訳注補完・訳語解説

訳注には入れなかった基本的な重要語句について補完します(随時、追加)。ただし、以下の記述の妥当性についての責任は、私個人が負っているにすぎないのでご注意ください。

アクターネットワーク理論 (actor-network theory)

営為/実践 (practice)

"practice" は、ある特定の文脈で「実践」と訳されてきたが、今日の多くの社会学の文脈では行為の習慣性、継続性(あるいは反復性)が焦点にあり(非目的的な「プラチック」のニュアンス)、実践と訳すと誤解を招くため、「営為」と訳した。

カオスと複雑性 (chaos and complexity)

カオスと複雑性をほぼ同義のものとして用いる論者は少なくないが、実際には次のようにまったく別のものである。「カオス」とは、低次システム(つまり自由度が低い)における乱流的な振る舞いを指すもので、そこでの振舞いは非線形法則によって規定されているが、初期条件のわずかな変化に過剰に反応し、ある時点を越えるとシステムの振る舞いが予期せぬものになる(バタフライ効果)。この過程が「創発」と呼ばれることがある。そして「複雑性」とは、高次システム(自由度が高い)において、システムの要素の無数の相互作用から「創発」する現象(高次秩序)の性格を指すものである。

感情の構造 (structure of feeling)

空間的回避/固定化 (spatial fix)

デヴィッド・ハーヴェイの術語。ハーヴェイは"spatial fix"について二つの分析枠組みを与えている。一つは物理的形式による、場所への内的な資本の「固定化」(immobility)としての文字通りの"fix"。そして、こうした資本蓄積の内的矛盾を外的に「回避」するための空間再編/空間戦略に基づいた一時的な「応急措置」としての"fix"である(たとえば国外への過剰資本の転換)。『ポスト・モダニティの条件』(原著、1990年)では主に前者に視点が当てられているのに対して(このため邦訳では「空間的固定化」と訳されている)、『ニュー・インペリアリズム』(原著、2003年)では初めて明示的にspatial fixの二つの性格が抉り出されている。

形態生成 (morphogenesis)

あくまで私見であるが、英米において一大理論潮流をなしている批判的実在論(Critical realism)の系譜を理解しないと、アーリの論述のコンテクストを捉えることはできない。マーガレット・アーチャーの形態生成論もその流れにあり、アーリの議論もこの流れに位置づけてみるとおもしろい。形態生成論の眼目は因果力をもった実在の重層性を認める非「合成」性にある(「移動」も合成されない!)。つまり構造還元論でもなければ相互作用還元論でもなければ合理的選択理論でもない←ただしそれぞれの理論は存在論的に区別される別々の創発レベルを分析する際に有効である。

行為項 (actant)

言語学で、動詞の表わす行為にかかわる主語・目的語を一括した名称。バンヴェニストの物語理論で用いられて以降、社会学(とりわけアクターネットワーク理論)でも援用されている。簡単にいえば、物語は主体が自由に織りなすものではなく、主体も客体もネットワークを構成するアクティブな存在であり、その要素要素を「行為項」(アクタン)と呼ぶ。

行為主体 (agency)

慣例により「行為主体」と訳しているが、個人的には「発為性」とでも訳したい(したがってagentは「発為者」)。文字通り行為を発する力(ability)を意味する。それがどのような「行為」なのかは文脈による。

社会組成的 (societal)

"societal" は最近の流行語であり、「社会的」(social)の意味で用いる誤用も目につくが、本書では当然使い分けられている。「社会組成的」とは、アーリの批判対象である「社会」に関するという意味。すなわち、「統一的な全体性(totality)としての社会に関する」という意味で「社会組成的」(societal)という語を用いる。したがってアーリが「社会的」(social)と言う場合は、関係的なものと解さなければならない。そして、本書の問題は、こうした全体社会の有するパノプティコン的状況から、そうした枠組みが崩壊した「力なき権力」による「ポスト・パノプティコン的」状況を、どう読み解くかにある。

〔用例〕
'Human beings need to enter into social power relations, but they do not need social totalities. They are social, but not societal, animals.' (Michael Mann, The Sources of Social Power)

もっと理論的にいえば、ジンメルは、こうした「社会」が近代の成立条件であることを論じるために、「社会化」の「形式」を問題にしたのである。つまり近代とは、新たな当為(Sollen)が規範そのものとなり、現時点の原理(たいていは道徳規則)となって、社会生活を可能にし、社会全体で作用することで社会全体の構造を「積極的に」与えるのである。ポール・ラビノーに言わせれば、それは、都市化、個人化に伴う平均の基体化であり、その帰結が科学的管理による「社会的なるもの」の再生産であった。しかし、この事態をロマン主義的に「生活」(Leben)を措定して批判の根拠とするのもハイ・モダニティの延長に過ぎない(抽象化)。ここで後期ジンメルが見いだしたのが「社交」概念である。つまり純粋「形式」化であり、ここで重要なのが「生の流れ」である。

集合的熱狂 (collective enthusiasms)

デュルケムの「集合的沸騰」と同義。

状況立脚的 (situated)

かつてサルトルは、「状況」(situation)を、人間の自由な投企に対応してある意味を持って現われる世界のこと、とした。今日、"situated" なる語はさまざまな文脈で用いられ、「状況づけられた」と訳されることが多いが、ここでは即自と対自の二つの意味あいを合わせて「状況立脚的」と訳した。

ソシエーション (sociation)

ドゥルーズ/ガタリが参照した、エリアス・カネッティの「群れ」と置き換えよ(「群衆」ではない)。ちなみに、sociationなる語自体はジンメルの「社会化」(Vergesellschaftung)の訳語としても用いられてきた。ジンメルの社会生活(gesellschaftliches Leben)とは「諸個人が互いに与え合う影響力や規定力によって結ばれているということを常に意味するものである」から「社会」(Gesellschaft)ではなく「社会化」と命名される(『社会学の根本問題』22頁)。

創発 (emergence)

アーリの創発概念は、方法論的個人主義的な「創発」のレベルを超えるものである。複雑性と創発の社会学的含意については、David Byrne, Complexity Theory and the Social Sciences: An Introduction (1998, Routledge) の第2、3章を参照のこと。創発論のさらなる社会学的展開は、Keith Sawyer, Social Emergence: Societies as Complex Systems (2005, Cambridge Uni. Pr.) が優れているが、後者はアーリとまったく立場を異にする。

中心縁 (centriphery)

ロイ・フランシスがSociology in a Different Key: Essays in Non-linear Sociology (1982) において提示した「中心=周縁」概念に対して、中心と周縁が一義的に捉えられてしまうとして、ベイカーが改変しもの。「かつての従属理論+ゼマンティーク」とイメージすれば理解は簡単。中心化(内部化)と周縁化(外部化)は不可分かつ不可逆の関係にあるということ。つまり、中心の秩序化が進めば、その分、周縁のエントロピーは増大し無秩序化=周縁化が進む。そして周縁化が進めばさらに中心は秩序を維持するために秩序化=中心化を強めなければならない。すると周縁はますます無秩序化が進展する、という不可逆的ループである。テロリズムとゲート化(監視社会化)は現代社会の不可逆的かつ必然的な現象なのだ。しかし散逸構造はいずれ分岐点に到達する。その結果は予測不可能である(歴史の必然からすれば、複数の小さな中心縁関係に分裂する=「秩序の島々」←ただしこのことを領域的に考えてはならない!)。重要なことは、グローバル化に対してローカル化によって抵抗するのは結局同じ論理の裏面にすぎないのであって、領域的な空間のメタファーがもたらす全体化の論理とは別に、ネットワークの論理によって、脱領土的な複数の〈場所〉を創発させることであろう(私見)。

「開かれた歴史というものは、いつだって、均一性よりは多様性に、定着よりは移動に、保守よりは進歩に、正統よりは異端のために用意されているものなのだ」そして、「かつて、外からの移動民族の襲来が、農耕国家の空間的固有性を破壊して、国境を超えた同時代感覚を持ち込み、定着にともなう停滞に新しい跳躍の機会を与えてくれたように、今度は都市という内部の辺境から、国境を破壊する軍勢が立ち現れようとしているのかもしれない。農村的な特殊性に「正統」を認める、国家の思想にかわって、都市的な同時代性に「正統」を認める、辺境派の軍勢が」(安部公房『内なる辺境』32, 98頁)。

ハイブリッド (hybrid)

異種交配の結果あるいはその過程を指す。本書では、サイボーグ理論の文脈やポストコロニアル理論の文脈で取り上げられる。前者の文脈では、人間身体とモノやテクノロジーとの融合、たとえば地図、カメラ、ウォークマン、自動車などが取り上げられ、後者の文脈では、コミュニティやネーションの本質主義的な観念を批判するポール・ギルロイなどの研究が取り上げられている。

氷河の時間 (glacial time)

ゆったりと流れる時間。glacialに「非常にゆっくりとした」という意味があるが、本書第6章で具体的に氷河について論じられているので、そのまま訳した。全体社会の制度表象的記憶に対する非制度表象的記憶。氷河は気候の変化によって溶解・再凍結を繰り返しながらたくさんの小さな水の流れが細流を形成する。そうしてできたたくさんの細流は、さまざまに合流し連結する中で多様な水路が形成され、ときおり新しい池ができたりもする。グローバルな流体の水脈。

複雑性、複雑系(complexity, complex system)

第五章で、「ストレンジ・アトラクタ」、「フラクタル」、「決定論カオス」、「カオスの縁」などといった用語が一応の説明とともに現われるが、本書では十分に論じられていないので、全体像が掴みにくい。これらの概念を持ち出すことの社会学的意味は、2003年のGlobal Complexityで包括的に展開されている。したがって、この書を本書と併せて読むことでアーリの理論枠組みはより明快になる。また、「カオスと複雑性」、「中心縁」の項も参照のこと。さらにこれらの概念については、下記のページに概略的な解説がなされている。

フラクタル (fractal)

どんなに微小な部分(スケール)をとっても、そのパタンが全体のパタンに相似している図形(自己相似性)。海岸線や雲、雪片などにみられる。フラクタルの次元は非整数的であるため(たとえばコッホ曲線は1.26...次元)、ここから分数(フラクション)の名をとってフラクタルと名づけられた。そして、ここでの力点は、どれだけ微小な部分に入り込もうと、決してなめらかな面(ユークリッド幾何学的均質)になることはなく、つねにズレ(運動)を孕んでいることにある(微分不可能態=モナド)。アーリはネットワークとフローによるグローバル空間がフラクタル空間であると論じるわけである。

訳語対照

内容補足

意味不明な箇所はないと思いますが、より深い理解のために、私なりに内容を補足します。

第8章354頁4行目 「かつての自然の強靱さは……」

「かつての自然の強靱さは、自然が文化的構成物であるという点が事実上視界から隠されていたことによって成立していた」(p.354, ll.4-5)。フランスの社会学者ブルーノ・ラトゥールが、その著『近代的であった試しなどない(Nous n'avons jamais ete modernes)』(1991年、邦訳なし)において、独自の「構制」(constitution)概念を用いて以来、従来の社会学的クロノロジー、すなわち「野生の思考」→「近代の思考」という発展図式は明瞭に否定され、自然/社会の境界が融解しているすることに成功している。

「構制」とは、簡単に言えば世界認識の構造のことであり、その要素は、「主体」(社会、共同体、文化、国家、文化)、「客体」(事物、技術、事実、自然)、「言語」(言説、媒介、翻訳、代理、表象)、「存在」(神、英雄、トーテム化された先祖、実存の問題)の4つからなり、以上の4領分が時代時代の構制において取り決められエントレンチされる(厳格に守られる)。

近代的構制においては次のようにエントレンチされる。すなわち、主体は、「内在的」で、絶えず「人工的」に市民によって構築されるものとされ、客体は、時間、空間的に「超越的」ないし普遍的であり、非構築的で発見の対象であり客観的に真であるとされ(自然科学、社会科学における事実と技術はこの意味で超越的)、言語において、主体と客体の間の翻訳は「禁止」され(「純化の仕事」)、存在においては、聖と俗が分離され、「取り消し線を引かれた神」がこの二元論の調停者の役を務める。

そして、これらの規定が何ら本質的なものでないことが、たとえば、科学社会学によるアクター・ネットワーク理論によって客体の超越的性格に対する挑戦され、広くは構築主義によって自然の内在性が指摘され、社会の超越性については、人間の共同体が「多くの非‐人間〔事物、技術、客体、自然〕の登録(enrolement)を通じて」(p. 138)時間的に持続されることが指摘されるなかで明らかとなっている。純粋な社会構造それ自体が存在するのではない。主体は準主体となり客体は準客体となる(この用語は、ミッシェル・セールによる。「準」はpseudoの意。つまり「見せかけの」)。

「移動の社会学」とは?

アーリらの指摘する「脱組織化」なり「非制度化」の議論は、領域的な組織制度や法体系が無くなり無秩序化するなどとアナーキックになると言っているのではない。移動(関係)とモノ(結晶)は、常に弁証法的関係にあることはヘラクレイトス以来多くの人が指摘してきた。同じ川の流れに二度入ることはできない、しかし「あなたはそこに川があるのを知っている」。川がないのに川の流れだけがあるなどありえない。しかし、川と流れ(存在と生成)の弁証法は多くの社会学者(ギデンズやらルーマン)が指摘してきたところである。ここでアーリの社会学の新奇性は、川を越える流れ(濁流)を扱う点にある。そして、私自身は、アーリの論をさらに(認識論においても)弁証法的に発展させるべく(存在論的には、川と川の流れと川を越える流れの三元弁証法)、「場所/空間の創発社会学」を展開している。