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既発表論文(2007年以降未更新!)

既発表論文(主たるもの)の要旨ならびに一部はPDF版全文を公開。2007年以降も含む既発表論文の全リストは、「プロフィール」

「グローバル世界における〈場所〉と創発の社会学
―グローバルな空間編制とアジアの地域住民組織」

2007年3月。東北大学博士学位論文。

〈場所〉の創発社会学の構想を全面展開するとともに、その構想に基づき、懶惰な既発表論文を全面的に書き改め有機的な統一性をもたせた。

「都市社会学の貧困または奢侈
―マイク・デイヴィス著、Planet of Slums を前にして」

『社会学研究』80号、2006年。

ロサンゼルスの都市社会学者マイク・デイヴィスは、『要塞都市』以来、世界の衆目を集めるイコンとなっている。本稿では、デイヴィスの最新作Planet of Slumsをそれまでの研究動向を踏まえレヴューする。デイヴィスの著作に対する学問的評価のアンビバレントさは、今日の都市の様相が有するポストモダン性に由縁するともとれる。すなわちデイヴィスは、現実のポストモダン的な「都市のレジーム」に対して、同様にポストモダン的態度をとりつつも(典型的には脚注の過剰さ)、その恣意性を覆い隠すべく、近代主義的・古典マルクス主義的に都市を客観的に把捉しようとする態度を見せるために、その学問性・科学性が批判されるのである。

しかし、デイヴィスの鳥瞰的な視点の妥当性を否定することはできない。我々には、そうした鳥瞰的な視点を保持しつつも、それだけでは見ることのできない、場所に根ざした営みに発する非近代的な空間の政治学に向けての分析枠組みが求められている。

……と、論文では批判だけで終わっている。その後の展開は、博論の終章に記した。

「バリ島における開発と文化のポリティクス
―ネオ伝統的ローカル・ガバナンスに向けて」

『社会学研究』80号、2006年。

本稿は、バリ島を舞台にポストコロニアル状況における「開発と文化」を定位することで、ローカル・ガバナンス分析に必要な基礎的枠組みを提示するものである。オランダ統治機構によって外から作られた「文化」なる構築物をバリ人自身が積極的に受け入れたことが後のナショナルな国家統一への包摂の契機にもなり、スハルト開発独裁における観光開発の対象として育成されることになった。しかし、外からの開発はすぐれて両義的なものであり、一方では文化を客体化・美学化することでその「価値」を高めたものの、他方では生活としての文化から切り離された人びとの不安を高めたのである。スハルト体制の限界が露わになる中で、その二面性が具象化している。自分たちの経済利益を確保しようとするミドル・クラスがバリの自律性の正当化の根拠として客体化された文化を「手段」として持ち出しているものの、他方で、生活としての文化を「目的」として守る側からは環境運動という実践として表われているのだ。しかし、ネオ・ナショナリズム化する今日のバリ地域社会のガバナンスを探るためには、両者の相互作用にも焦点を当てなければならない。

博論章に修正のうえ採録。

 「グローバル複雑系における『地域的なるもの』の位置とその可能性
―複雑系社会学と地域社会学の交接」

 

『社会学年報』35号、2006年。

本稿では、現代のグローバル社会の無/秩序性の記述に不可欠なメタファーとしての「複雑性理論」が〈地域的なるもの〉に対して有するインパクトについて検討する。こうした複雑系社会学の見地は,従来のグローバル/ローカルというスケールの枠組みをも融解させ、「近接性への衝動」を越えた〈地域的なるもの〉の再定式化を迫るものである。すなわち、グローバル化に「抵抗」する他のローカルな「領域」が存在するのではなく、グローバル-ローカルのスペクトル上を動く創発的で不可逆的な「さまざまなプロセス」が存在するのである。こうして「領域性」は瓦解し、ローカルなプロセスはローカルな範域を越えて、グローバルなネットワークによって他のローカルな文脈と連接するようになる。そして、ネットワーク社会における「レリバントな」知は、不確実性を内包したコスモポリタン的な共存的世界のなかで、それぞれのローカルな文脈に根ざしたものとなる。

展開が十分ではなかった。博論章に大幅に加筆のうえ採録。

「マカオ地域社会と『場所』のポストコロニアル性
―地域住民組織『街坊会』の発展史」

『ヘスティアとクリオ』No.3、2006年。高橋強と共著(第一著者)。

本稿が企図するのは、中国返還後のポストコロニアル・マカオにおける地域住民組織の位相を問うための基礎的分析である。マカオのポストコロニアル性の有する特異性はコロニアルなるものに対する両義性にある。すなわち、周縁とも中心とも想像できるマカオという場所に対して、コロニアル政庁が一つの集合的アイデンティティを付与することはなく、マカオ社会は、〈中心性と周縁性〉の間で交差する相矛盾した複雑な関係性のなかで自らを定位しようとしてきたのである。今日のポストコロニアル・マカオという「場所」の評価は、コロニアリズムと密接に絡み合っており、コロニアリズムの評価自体がマカオの差異を成立させる条件となっているのだ。

ここで示唆的なのが移行期のマカオ政庁による一連の文化遺産復興事業の推進である。移行期に入りマカオ政庁が急に都市的帰属心を高めるような政策を採り始めた理由は「一国両制」の内実を通して考えてみるとよくわかる。すなわち、マカオは、さまざまなアクターがさまざまな活動を営む「場」になっており、そこに中国国民国家としての領域的集合性を直に持ち込むと交差的なマカオ社会に深淵な裂開を生じさせることになりかねなかったのである。こうして、マカオの集合的アイデンティティは、一国両制によって国家構築や国民構築から分離して発展されることになったのだ。

本稿の焦点は、こうしたポストコロニアル状況において、地域住民組織、「街坊会」のポテンシャルを支配/生活の二分法を越えた次元で問うことにある。ところが本稿でみるように、「生活の共同」というグラスルーツの古層を有しながらも、街坊会は、文革の影響により親北京派組織として組織化され、中国共産党をバックにコロニアル状況下における政治的影響力を獲得してきた。実際のところ、中国共産党は、グラスルーツのレベルでは街坊会を通じて巧みに国民構築を進めてきたのである。そして、逆説的にも中国返還によって街坊会はその影響力を弱めている。というのも、移行期そして返還後の一国両制というポストコロニアル状況のなかで、マカオの市民社会は中国のネーション・ビルディングから距離をとりつつ成長してきたからである。

経済の急成長が続くマカオ社会において、「地域住民組織」としての街坊会の今後の可能性は、「五十年不変」のなかで、「橋」としてのマカオの場所性を認識し、中国共産党とマカオの市民社会とのいずれにも偏向することなく、グラスルーツのレベルで両者をしたたかに媒介できるかどうかにかかっているように思われる。我々は、地域におけるそうした日常的な集合的実践を問い求める必要がある。

博論の章に採録。この先は、現在、マカオで調査中。

「制度的〈地域〉表象の限界―仙台市柳生地区の場合」

『地域社会学会年報第18集』2006年5月、ハーベスト社。

地域表象の前期近代的同一性(すなわち均質性)が今日大きく揺らいでいることを明らかにするべく、地域の表象をめぐって織りなされる町内会やボランタリー・アソシエーションの活動について検討し、町内会という制度的表象に収まらない、非制度的な表象が湧出するなかで、町内会が従来のように〈地域〉を客体的ないし制度的に表象する(つまり行政国家的な文脈を背景に地域を一つに統合する)ことが困難になっていることを明らかにした。そして今日の町内会の課題として、地理学的には同じ地域に住んでいても、地域の表象による共同性が複数化・差異化するなかで、複数形の共同の地平を(統合や縫合ではなく)緩やかに離接する共通の場(交接点)となることが求められていることを実証的に析出した。

当初は「地域」そのものを問うつもりであったが、うまくいかず、「地域」を「領域的に」捉える思考が限界にあることを実証する内容となった。しかし、博論では「地域」の存立構造を論じており、本論もその枠組みの中に位置づけ直された。

「過剰な都市化に伴う地域共同性の変容
仙台市域町内会の制度論的転回に向けて」

『日本都市学会年報 Vol.39』2006年4月、日本都市学会。

町内会に対する一般住民の無関心が高まるなか、町内会の正統性を行政的公共性の体現(補助金による「再配分」)に求める傾向がますます強まっている。そして、町内会長は町内会の行政的機能を篤志と献身の心で自己犠牲的に引き受けるようになり、それによって却って一般住民が自治組織であるはずの町内会と距離を置くようになってしまっている。つまり、国家行政がポスト・フォーディズム体制のなかでナショナルな統合を表象することが困難になるにつれ、秩序維持のための表象が「地域」に求められているが、実際には依然として町内会がカネのつながりによって制度的に表象せざるをえず、住民を地域に対して極めて受動・受益的な存在へと貶めることになってしまっているのである。ここにおいて地域住民までもが地域を客体的に「外から」表象することになる。

こうしたなかで、町内会長が一人「矛盾」を背負うことなく、弁証法的な空間/場所形成のメカニズム(「伸縮自在な縁」)を取り戻すべく、町内会は「制度」論的転回を遂げることが求められている。

「バンジャールの組織的構成と機能―アンケート結果第一次報告」

 

『東北大学大学院文学研究科年報』54号。2005年3月, pp.1-40。吉原直樹ほかと共著(第二著者)。

 「地域共同性の現代的位相と地域住民組織―仙台市域の町内社会」

コミュニティ・自治・歴史研究会『ヘスティアとクリオ』No.1: pp.58-83、2005年。PDF形式。

これまで社会学において町内会の現在性が論じられる際、その認識は多分に都市化=近代化に沿ったものであった。町内会が近代的行政の補完機能を果すなかで、「町内」なる〈地域〉空間が一つの「社会」として捉えられ、それを制度的に表象/代表(represent)するものと措定されてきたのに符節を合わせて、社会学は町内を一つの「コミュニティ」として、均質空間として描いてきたのである。この地域の一元性に異を唱えたのが、生活論の立場であるといえるが、この議論もまたハイデガーの土地と居住の議論に依拠したものであり、今日の「場所の社会学」が問題としている「土地」から「景観」への空間編成の変転に配視したものではない。すなわち、ポスト都市化=近代化のなかで、〈地域〉は空間的にも、言説的にもヒト、モノ、カネ、イメージの移動により差異化され多層化したものになっているのである(場所性の問題)。今後、生活論は、このポスト都市化=近代化の動向を踏まえ展開される必要がある。

本稿では、如上の事態に配視しながら、仙台市の町内社会の組織化のありようを、執筆者らが行なった町内会調査などの分析を通じて明らかにするとともに、今日の町内会は依然として行政的公共性の下支えによって近代的に「地域社会」を表象/代表しており、そのために〈地域〉の今日的共同性、すなわち「社交性」を包摂するのが困難になっている可能性を指摘して、その結論とする。

 「開発のレトリックとローカル・ガバナンスの歴史的位相
―仙台市長町地区を対象にして」

東北都市学会『仙台都市研究』Vol.4: pp.41-57、2004年。

今日、〈まちづくり〉という言葉が世に喧伝され、〈まちづくり〉をめぐる言説が学界においても盛んに発せられている。しかしながら、その内実はといえば、しばしば、いわば「心理学化する社会」と軌を一にしたナイーブな議論がなされ、他方で、保守化の流れの中でボランティアを介したまちづくりが(フーコー的な意味で)「権力の主体化」につながるとの指摘がかたちをかえさまざまになされている。いずれも問題の焦点はまちづくりの主体性にあると考えられる。

本論では、筆者らが中心となって2002年度から行っている、仙台市長町地区のフィールド調査から経験的地平に照らしつつ、〈まちづくり〉をローカル・ガバナンスにおける「開発」のレトリックの一形態と位置づけ、そして、「公と私」の問題と関わらせることで、如上のまちづくりの主体性の問題について一つの見地を提示し、まちづくりの今日的意義、さらにはまちづくりの存立条件が存在論的な「場所」の新たな創出(re-invention)にあることを論じる。

「デュルケム=ダグラスの文化理論に関する一考察
―ガバナンスの人類学的・社会学的考察に向けて」

2003年度東北大学修士学位論文、2004年3月。PDF形式。

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