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    「含羞文化」

    大人というものは侘しいものだ。愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答えは、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。〔・・・・・・〕大人とは、裏切られた青年の姿である。(『津軽』)

    「含羞」(はにかみ)は太宰治(1909~1948)の造語である。太宰の含羞意識は、これまで「罪、誕生の時刻に在り」という罪意識と結び付けられ考えられてきた。そして、太宰の作品に登場する「罪」を問うとき、太宰自身の私生活の中にその外因を求めて説明されるのが常であった。青森県下有数の大地主に生まれ、不当に恵まれて育ち、革命運動から離脱し、大学も卒業できず、生家から分籍され、心中事件で相手の女性を死に追いやり、自殺幇助罪に問われ、パビナール中毒で借金を抱え、そして武蔵野病院への入院と、こうした数奇な運命の一つ一つが、太宰には、人間性喪失の烙印を意味したとされる。「笑はれて、笑はれて、つよくなる」(『Human Lost』)そう考える以外にはなかったというわけである。この罪意識こそが、太宰文学に通底したものなのだと(奥野健男)。

    自分の世の中の人に対する感情はやはりいつもはにかみで、背の丈を二寸くらゐ低くして歩いてゐなければいけないやうな実感をもつて生きてきました。こんなところにも、私の文学の根拠があるやうな気がするのです。(『わが半生を語る』)

    そして、この罪意識ゆえに一人苦悩する無垢な男、「無垢ゆえに世間の思惑に利用され、排斥されていく一人の殉教者―その背後にあるのは徹底して社会の偽善と戦う作者の姿であり、自己破滅的な作風をもって社会の権威に立ち向かう『無頼派』の神話が、ここに誕生することになった」(安藤宏)のである。

    ここでいう無頼派の神話とは、戦後派的な問題意識から、太宰の作品のうちに倫理的なテーマを読み取ろうとした結果なのであり、たとえば、奥野健男の「ナルシシズムに対しては自己破壊を、生家に対しては脱出を、そして社会秩序に対しては反逆を、これが太宰の一生を貫く下降志向の道です」という言葉がよく知られるところである。

    しかしながら、今日のわれわれに通底する含羞意識、含羞文化は、こうしたモチーフに基づくものではもはやありえない。たとえば、私たちが映画館に閉じ込められているとき、一種の感覚の麻痺を起こすことがあるが、いったん出て来てしまえば、日常の生活風景が広がっている。そのときに、私たちが感じる感覚、それは含羞と呼ぶにふさわしいものではないか。今日のわれわれが含羞というものを解釈するのであるならば、それは、より広い文脈の中でなされなければならないだろう。

    神話から日常世界へ

    ここで注目されるのは、太宰の「語り」の姿勢である。遺作として執筆した初期の作品、『晩年』の中の『めくら草紙』の題辞には、「なんにも書くな。なんにも読むな。なんにも思ふな。ただ、生きて在れ!」とある。が、太宰は、この「書くな。読むな。思ふな」をみずから破っていく道を選んでいったのである。

    「語る」とはなにか。ただ生きている中に「語り」は生まれない。自己を外から見つめる新たな自己の創出、すなわち、自らと時間的、空間的に距離をとったときに、はじめて言葉、物語が生まれるのである。この言葉、物語は「無垢」なものではありえない。「虚構(フィクション)」である。太宰は早くから服装への関心を抱き、「おしやれを、人に感附かれぬやうにひそかにやつた」といい、その理由を「うちの人たちは私の容貌を兄弟中で一番わるいわるい、と言ってゐたし、そのやうな悪いところが、こんなおしやれをすると知られたら皆に笑はれるだらう、と考えたからである」と述べている。「含羞」もこの遠近法のうちに把捉することができるだろう。

    こうして、神話としての太宰治から離れ、われわれの生活感覚に深く共感を呼び覚ます一人の東北人太宰治としての姿を描くことができるわけであるが、とはいえ、やはり生の基本原理としての「含羞」の意義を考えて見ることも無益ではあるまい。

    東北都市の「位置」

    思えば、人間とは社会に生きていく中で、自らの「世界」と距離を置くことで、さまざまな虚構をつくりあげ、そして、創り出された「他者」と関係を取り結ぶために、その虚構にすがって、そして裏切られ生きなければならない存在なのである。

    つまり自分には、人間の営みといふものが未だに何もわかつてゐない、といふ事になりさうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食ひちがつてゐるやうな不安、自分はその不安のために夜々、輾転し、呻吟し、発狂しかけた事さへあります。(『人間失格』)

    しかし、その二律背反の必然にもかかわらず、19世紀リアリズム、西洋客観主義、広く近代とは、こうした「虚構」を一方的に突き崩す営為であった。それは振り返ることなく「滅び」に向かう時代である。これに対して、含羞は突き崩すものではない。ひきさがり、距離を置くのである。

    人間は、みな、同じものだ。
    これは、いつたい、思想でせうか。
    〔・・・・・・〕
    人間は、みな、同じものだ。
    なんといふ卑屈な言葉であらう。
                 (『斜陽』)

    この文脈の内に、「最後に問ふ。弱さ、苦悩は罪なりや」(『如是我聞』)という問いかけ、そして、「はにかみを忘れた国は、文明国で無い」(『返事の手紙』)という批判を聞くことができるだろう。

    翻って、東北都市という視点で考えてみるならば、太宰が津軽に見た「故郷」とは、まさしく、津軽から離れた東京からのまなざしによって(広く言えば、中央/地方という空間的へだたりを条件として)生み出された「虚構」(それはまた含羞の対象である)として見ることができる。

    【参考文献】