博士学位論文 序論
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序論 実証的社会科学の脱近代的再定式化に向けて
   ―〈場所〉の創発社会学の基本前提―

2. 社会科学の存立―実証主義/構築主義の境界を越える

2.1 自然科学の二つの次元

社会学は、その出来においてオーギュスト・コントが「社会物理学」と名付けたように、その科学言語は必然的に自然科学のそれにメタファー的に依拠したものとならざるを得ない5)。しかし、社会科学においても自然科学の方法論がそのまま適用できるという自然主義の立場を採る者はもはやいないだろう。これは、端的に言えば、大文字の啓蒙主義に由来し、ヒューム流の法則理解を目指そうとする素朴実証主義的=近代主義的な見地である。デヴィッド・ハーヴェイら一部の例外を除けば、弁証法的唯物論もこの範疇にあった。

そして、こうした見地に異を唱えるのが、シュライアーマッハーに由来し、ディルタイ等を経てカントの超越論的観念論に繋がる解釈学の立場である。この立場によると、社会科学は自然科学とは根本的に異なり、その特徴は対象が有意味的な素材であることにある。つまり社会科学はそうした意味の次元を問うことを目的とする、というわけだ。たとえば、ルカーチ、フランクフルト学派、サルトルの議論が、この流れに位置づけられよう。そして、近年の構築主義もこの潮流に属する。

しかし、20世紀後半になって現われた批判的実在論が明らかにしてきたように、こうした実証主義と解釈学には、いずれにも共通した錯誤がある。それは、自然科学については基本的に実証主義の見方が成り立つとしていることである。別言すれば、経験論的存在論を暗黙裏の内に受け入れているのである。そして、自然主義を実証主義的に捉える間違いを犯しているために、自然科学と社会科学とを正しく位置づけることができないのだ。

この点を明確にするには、代表的な批判的実在論者であるロイ・バスカーによる科学的知識の定式化が有益である。バスカーによれば、科学的知識は「不動的次元」(intransitive dimension)と「可動的次元」(transitive dimension)の二つに分けることができる。

不動的次元とは科学の存在論的側面を示すものである。ここで認めなければならないのは、自然のメカニズムは、科学的探究の対象でありながら、人間の認識活動からは完全に独立して存在していることである。このことは科学実験室での営みを考えてみれば明らかである。すなわち、

科学者は実験を通じてありとあらゆる現象を生み出しうるが、実験が成功したと言えるのは、実際に生み出された現象が当の科学者の生み出しえないものを映し出す鏡となっている場合だけである。こうして明らかなように、因果法則などの実験的探究の対象と実験の所産たる事象の生起パタンとの間には実在的な違いが存在しており、まさにその事実が実験活動に叡智性6)を与える条件となっているのである。(Bhaskar 1998: 9)

つまり、化学実験室における実践のねらいは、実際に起こる現象とは位相を異にする構造や生成のメカニズム(因果法則の実在的基礎)を捉えることにある。そして、現実世界はオープン・システムであるため、実験や応用が叡智的なものである限り、因果法則は事物の「傾向」として分析されなければならないのである。

こうして、現実主義的な法則理解はその妥当性を完全に失う。なぜなら、応用科学が成立する以上、法則は経験的なものであってはならないからである。因果法則とその経験的根拠の間には、このようにして存在論的な切断が存在するのである7)

他方で、我々の知識は、いついかなるときも時間空間的に限定された特殊な形態を取っている。そこで、次に科学的知識の可動的次元、すなわち社会学的側面を明確に位置づけることが求められる。

ある現象が認められたとして、その現象についての説明を打ち立てるというのは、(知識が全くの無から創り出されるとする非合理な前提を避け、そうした知識は前もって存在している知識の「可動的」対象を用いてつくられるとすれば)その現象を生み出す特定のメカニズムに関する知識を、アナロジーやメタファーによって遡源推理的(レトロダクティブ)に生み出すことである8)。そして、経験的検証を経て、現象の深部で作動する生成メカニズムの同定に至れば、次にはそのメカニズムを基点にして新たな弁証法が展開されることになる9)

そして、これらの論点からは、事物に対する次のような見方が生まれる。すなわち、事物とはエージェンシーをもった存在であり、作用(行為)とはまさにそうしたエージェンシーの発動に他ならない。歴史的事物はさまざまな傾向、力能からなる一つの全体的存在物として存在しており、そこに見られるのは特有の階層構造と分岐構造である。そして、そのような事物の形態変化のあらわれこそが、歴史的事象なのである。 こうして、科学の本質は、「ある階層の現象に関する知識からその現象を生み出す構造に関する知識へと漸次移行していくところにある」(Bhaskar 1998: 13)と規定される。では、社会科学―本論でいえば、社会科学としての地域社会学―においても、そのような移行は可能なのだろうか。

2.2 社会科学の存立

以上見てきた批判的実在論の立場では、社会科学の方法は基本的に自然科学のそれと同一であることを認める点では実証主義的でもあり、逆に社会科学の対象が自然科学のそれとは異なることを認める点では解釈学的でもある。ただし、重要なのは、批判的実在論における科学的方法論は実証主義の考える科学的方法とは異なり、批判的実在論における社会科学の固有性もまた解釈学の見方とは異なる点である。

まず前者について言えば、実証主義者が強調したように、社会生活の領域にも因果法則や一般法則は作用している(そして、そうした法則は能動者たる人間の自然発生的な悟性にとっては極めて不透明である)。実証主義者の間違いは、法則を経験的規則性に縮減してしまったこと、そしてそのために法則がどのように同定されるかについて誤った説明を与えたことにある。社会生活の領域においては孤立系が自生的に発生することはないし、実験的に創り出されることもない。とすれば、社会科学はオープン・システムで顕現する社会現象と直接向き合い科学的討究を進めなければならない。

他方で、社会科学の対象となる存在は、それらを把握するために用いられる素材と同一の質料をもつものであるという解釈学の指摘も間違ってはいない。したがって、社会科学とその対象との関係は、概念−概念関係になることも事実である。ただし、解釈学の誤りは、その概念関係をめぐる問題に社会科学の対象を限定してしまったことにある。社会科学の対象は社会的なものであると同時に、概念としては常に不完全なものでしかないのである。

そして以上の実証主義と解釈学の誤りは、本章冒頭で述べた近代的構制の融解と密接な関係がある。まず、一方の実証主義は、超越的な客体を持ち出しその因果関係を同定するにとどまってきた。時間空間的に普遍な「かたい客体」が人間のカテゴリーの運命を規定するというわけだ。そして、その普遍性は科学技術(経済、遺伝学、生物学)によって決定ないし規定されるものであり、そうした「かたい客体」によって主体の「やわらかい次元」(宗教、消費、大衆文化、政治)が説明されてきた10)

そして、他方の解釈学ないし構築主義は、内在的な主体による構築を同定するにとどまってきた。客体の「やわらかい次元」(自然、神、機械、芸術)が主体の「かたい部分」によって構築されるとしてきたのである(「社会的要因」)。

したがって、いずれの立場も近代的構制を再生産するものでしかなかった。ところが、実際のところ、客体は超越と内在の非近代的な混在、すなわち「準客体」であり、主体は、一定の時間空間において超越的な「準主体」なのである。既存の近代的な制度科学は、この準主体と準客体のハイブリッドなネットワーク(グローバルなプロセス)を閉塞させてしまうという点で「有害」なのである11)。そして私たちはかつての生気論(生の哲学)へと立ち戻ることになる12)

新たな「社会」理論は、準客体と準主体の非分離性(第三空間としての〈場所〉)を擁護し、翻訳ネットワークの禁制を解除し「つながり」を希求する我々の「自由」に対する禁制を終わらせるものでなければならない(Latour 1993: 141)。実在性(リアリティ)を固定化させていたシンボリックなコントロール(Berger and Luckmann 1967=2002)が社会的全体性から自由になり13)、こうしてリアリティは不確実なものとなるのだ14)

そして、非近代的構制によって、旧い(アルカイックな)ものと新しいものとが結ばれ、新しい連接のなかで歴史は「回復」される。世俗に神々を連れ帰ることで、非近代が近代のファウスト的主体を減殺するのだ。プレ・モダン的な動員が単純な再生産をもたらすのに対して、非近代的な動員はネットワークの拡大再生産を導くものとなる15)。これは、グローバル・ネットワークからの排除という、移動資本による新たな空間的不平等を回避することにもつながる16)

  1. 近代の実証主義における「観察」科学ですら、有機体のメタファーに代わって視覚のメタファーを持ち出すものであった。つまり近代のエピステーメーにおける「人間」とは表象を見て分類する「観察者」としての個人であったが、ここから生まれた視覚的認識論もまた心的表象に基づいたものに過ぎない。そして、科学はその事実を私たちのまなざしから隠すことで、自らの非メタファー的性格を主張することができた。「われわれの哲学的関心のほとんどは、命題よりもむしろ描像によって、言明よりもむしろメタファーによって規定されている。……まさに西欧の精神が視覚メタファーによって支配されてきたという物語である」(Rorty 1980=1993: 31-2)。本論は、この視覚メタファーに代わる近年の移動・運動メタファーに拠って立つ場所論、場所分析を展開するものである。
  2. カントは、対象が悟性によってのみ表象されることができ、われわれの感性的直観と全然関係しえぬ限りにおいて、その対象は叡智的であるとした。つまり、叡智性とは、知性、精神、理性によって把握しうる、という性質を意味する。
  3. したがって、ポパー&ヘンペルの枠組みとは異なり、問題となっている事象が経験的不変性から演繹的に導出されることは自然現象の科学的説明にとって必要条件でも十分条件でもない(Bhaskar 1997: chap.2.4)。
  4. 社会学におけるこうした性格については、キート&アーリ(Keat and Urry 1982)、アーリ(Urry 2000=2006: 37-46)を参照のこと。また、後述するように、因果的基準は必ずしも知覚可能なものではなく、この点を解釈学は無視してきたために、社会的なるものが素朴経験論的に実在しているか、超越論的な意味で観念的であるか、という不毛な論争がなされることになった(Bhaskar 1997: 182)。
  5. この存在論的深度があるからこそ(深い層の知識によって表層の知識が説明され修正される)、ファイヤーベントやクーンの見方を排して、科学的知識は階層的に発展するのである(Bhaskar 1997: 108-14)。
  6. たとえば、認識論的リアリズムが近代化の分化過程によるものであるとのリチャード・ローティの議論(Rorty 1980=1993)を参照せよ。
  7. 本論第III部との関連もあるが、この点に関しては、ポストコロニアリズム研究者のメアリー・プラットによる「帝国の眼差し」(Imperial Eyes)なる概念が参考になるだろう。プラットは、露骨な植民地主義に対して、「反征服」を掲げる良心的な旅行記者、探検家の観察が、結果として観察対象との距離を生み出すことによって「ブルジョア主体」の創出につながったことを見いだしている(Pratt 1992)。社会科学の営みもまた社会的実践の一形態であることを見逃してはならない。
  8. グローバル・ネットワークにおける〈場所〉の創発による「連帯」を考えようとすれば、生の哲学の検討は避けられないだろう。プロセスとしてのグローバル化と生の哲学の親近性については本論第I部を、生の哲学と連帯の問題については本論I部補論を参照のこと。
  9. バーガー&ルックマンの理論については、第1部補論で批判的に検討する。
  10. こうしてカントの『判断力批判』の領野に向かうことになる。つまり、理性と構想力の相互浸透の領野である。ここまでは、数多のポストモダン理論と同様である。リアリティは象徴平面において上昇し下降する。人間集団はシンボルを操作し、言語ゲームに勤しんでおり、彼らが生み出すリアリティは、したがって、偶有的でローカルなものとなる。モダニズムがリアリティの表象の正確さを問題にしてきたとすれば、ポストモダニズムは表象しようとしているリアリティそのものを問題にする(Lash 1990=1997: 21)。しかし、〈場所〉創発の社会学は、ポストモダン理論から導かれる脱構築主義/構築主義には向かわない。ノン・モンダン(非近代的)なものを追求するのである。そして、ポストモダンとノン・モダンの違いは、後者は創発の媒介性を主張する点にある。この点については、第1部補論を参照のこと。
  11. さらにいえば、近代実験科学から派生して成立した政治的代表制に挑戦することにもなる。
  12. この点については、本論終章で論じる。